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共生学としての道家思想
作者是 山田利明教授   

共生学としての道家思想

 

2005-04

國際道家學術總會 道學部 山田利明教授

摘錄:第一屆國際道家學術大會論文集

 

人類の歴史は、殆ど戦争と闘争の歴史といってよい。国家という概念が成立する以前の時代にあっても、地域の利権をめぐる争いは存在したし、民族間の抗争も存在した。国家あるいは王朝が成立してからも、こうした対立構造はより激しくなることはあっても、決して止むことはなかった。土地をめぐる争い、民族抗争、宗教戦争など、あらゆる紛争の原因は、人間自身が作った対立観念の中にある。

従来、共生とは「共に生きる」という意味をもって、人類全体の共生、戦争・紛争の廃絶を意図した。しかし今日的視野をもってすれば、環境論としての人類と自然との共生、福祉論としての老人と若者との共生、さらには異文化間の共生など、地球的規模での共生論が指摘されている。こうした「共生」の意味するところは、調和・共存・融和あるいは共同・協力という概念が基本的なタームとなる。

今回の発表では、共生の思想を構築するために、道家の思想の有効性を指摘し、道家思想を基盤とする共生の理論を提示したい。

  

周知のように、道家思想の基本的観念は「無為自然」にある。意図的な行為を否定し、「道」に身を任ねるこの思想は、漢代に「黄老」の政術を生み、武帝による儒教統治まで、漢王朝の主要な統治思想となったことは有名である。劉邦の功臣曹参が黄老術によって斉国を治め、斉は九年にわたって安泰を保った。『史記』曹相国世家によれば、膠西の(こう)公が教えを授けたという。

では、漢初に行われた黄老政術とは、一体どのような内容であったのか。『韓非子』主道篇などによれば、

  君主とは虚静無為を主とする。政務は専ら臣下に委ねて、君主はその成果を見ていればよい。虚静無為を保っていれば、臣下が進言し、事を進める。「形名参同」すなわち、実績とその官職が一致しているか否かを調べ、臣下を監督する。このようにすれば、臣下はその能力を発揮し、無能力のものは退けられる。(要旨)

という。要するに、臣下に進言させてそれを行わせ、その成果を勘案する。その際、虚心の境地をもって監督する、というのである。韓非子は戦国末の人であるから、漢代初期の黄老術も、おそらくこれと同じ内容をもったと考えてよい。注意すべきは、この黄老術が為政者のあり方を論じたものであること。これは、臣下の意思、臣下の立場を政治に反映させようとするもので、為政者の意思が直截に反映するものではない。為政者の独裁的傾向截を臣下の意思によって防止し、一方、臣下の過誤を為政者が監督する、いわば一種の政治的共生の理論が成立する。

もともと道家の思想の中には、その底流に融和の思想が存在する。『老子』には、

  江海所以能為百谷王、以其善下之、故能為百谷王、是以欲上民、必以言下之、…是以聖人、處上而民不重、處前而民不害、是以天下楽推而不厭、以其不争、故天下莫能與之争。(第六十六章)

といい、大河や大海が百谷の王者でありうるのは、それが低きにいて、よくへりくだるから、百谷の王者たりうるのだ。だから、人の上に立うとすれば、必ず謙虚な言葉でへりくだり、人の前に立うとするときは、必ず人々のあとにつく。……聖人は誰とも争わない。したがって誰も争うものはいない。

王者のあり方を示したこの一句は、民との融和、融合を記すものといえる。王者自身が自らの地位を民と同等におき、民とともに存立しようとする姿は、民と融合した王者の形態であろう。しかもそのように融合した王者は、必然的に争う必要のない、また争う相手もいない状況を作ることになる。

『老子』のもつこのような視点は、春秋末から戦国期にかけての混乱した社会を背景とするに違いないが、その一方で、『老子』には明確な国家統合の理想像がある。それは「小国寡民」の思想である。第八十章に記された老子の理想社会は、小さな国に少い国民。さまざまな文明の利器があっても用いさせず、遠くに移住させず、文字を廃し、その土地で採れる食物を最上のものと思わせ、その地の衣服を最高のものと思わせ、住んでいる住居を満足なものと思わせて、その生活を楽しませれば、どんなに隣国に近くても、その地を離れるものはない。

これは価値観の転換による国家統治である。現在住む土地の食物や衣服・住居・生活を最上のものと思わせることによって、美食・華美贅沢を無価値なものと思わせる。より良いものを求める心を去り、無欲を最上とする価値観にもとづく国家である。そのためには民の知識さえ必要ではない。原始の状態を維持し続ける。そのまま理解すれば、反文明的な愚民化政策ともいえる。しかし、もう一歩踏み込んで考えると、その世界は、文明や美味・贅沢などという観念も存在しない社会、紛争・戦争という観念ももちろん存在しない。反面、不便・粗食粗衣・平和・融和という観念もない社会ということになる。

当然、こうした理念は、一つの架空の理論とし記されるものであって、これを実践するわけではない。ただ、様々な条件のもとにある多くの国家・社会についていえば、あらゆる条件を超越した、換言すれば全ての対立概念が存在しない文明社会をユートピアとする。

  

共生論としての道家思想の基盤はここにある。あらゆる対立概念を取り去った文明社会というのは、現実には存在し得ないが、人種・男女・老若の概念を超えた「人間」という概念、あるいは人間と動物・植物の境界を超えた「生物」という概念、また国家・地域を超えた「地球」など、対立概念を包括する概念は存在する。しかも、人間・生物・地球を包括する「宇宙」。その宇宙の原理が「道」である。

包括する概念が存在することは、共通の条件・共通の内容、あるいは同等の価値を有することを意味する。例えば、男と女、老人と若者というとき、共に人類であるという生物学上の共通点、地球上に生きるという共通の条件、そして何より人間としての尊厳を備えるという価値を無視することはできない。地球・宇宙を基盤とした運命共同体ということができる。つまり、概念を広くとるか狭くとるかによって、視野を広くとるか狭くとるかによって、一見、対立するもののように見える概念も、共通の基盤をもつことがわかる。

『老子』第一章に、「道可道、非常道」とある。この句はいくつかの意味に解釈されるが、「世間で道といわれているような道理は、不変の道理ではない」という理解もある。例えば儒家の説く道は、結局儒家だけにしか通用しない。それはごく狭い範囲の道理だけを述べたものであるから、対立する学派や党派に対しては争乱を助長することはあっても、それを治める道理とはなり得ない。『老子』のいう「常道」は、そうした一党一派にだけ通用する道ではなく、世間のあらゆる道理を包括した道であり、これこそが不変の道であるという。したがって、その道は何の道か、誰の道かと名付けることはできない。「無名」の道である。『老子』は、この道について「天下の母と為す。この名を大という」(第二十五章)と記しているが、この大いなる視野と包括性こそ、道のもつ特性の一つであろう。

『老子』の思想中、「柔弱謙下」といわれる処世法がある。あらゆる事態に柔軟に対処し、謙虚・へりくだりを主として生きる。その生き方は、例えば水のように、地上のあらゆる物に利益をあたえ、しかも流れに争わない。多くの人々の嫌う低い湿地に流れ込み、そこに止まる。……流れに逆らって争わないから、争いも起こらない(第八章)。『老子』はこの水の性質をしばしば道の特性に喩える。注意すべき点は、水のようにあらゆる物に利益をあたえる、ということ。その利益とは必ずしも消極的な利益としての紛争の回避や保身というわけではなく、むしろ繁栄や栄達さえ可能であるということであろう。共存共栄の方法ともいえる。

  

さて、では具体的に道家の思想、特に『老子』の思想を共生論として考えたとき、現代社会にそれを反映させる方法はあるのか。ただし、共生の内容がきわめて広い分野に及ぶことを考えると、いくつかの分野に限定してその理論を提示してみたい。

○無の効用

  三十輻共一轂、當其無、有車之用、埏埴以無器、當其無用器之用、……故有之以為利、無之以為用。(第十一章)

車輪の中心にある穴は、車軸を通すための穴で、そこが空洞になっていなければ車軸を通すことができない。したがって車輪の用をなさない。同様に、粘土をこねて(うつわ)を作るにも、ものを入れるためには空洞にしなければならない。すなわち、何もない空間が役に立つのである。

この示唆に富む表現は、古来から多く引用されてきたが、現代都市の空間の有用性だけではなく、現代生活の中における時間的空白、あるいは精神的空白の有効性も指摘されている。緊張の持続には、精神の空白が必要であることも立証されている。

異文化との共生を考えるとき、既成概念のない、全くの空白の状態が相互の融合に適していることは、幼児がすぐに外国生活に慣れる事実を見ても明らかであろう。そこでは、むしろ既成の知識が障害の要因にさえなる。事前の情報は多ければ多いほど良い、というのが従来の考え方であった。確かに、多くの情報を集め、それを分析して対策を確立しておく必要はある。しかし事前の情報や対策に束縛されてしまうと、有効な対応はできない。束縛のない空白領域をもつことの重要性はここにある。

二つの異った文化が融合するには、同様にこの二つの文化の間に一定の空白域が必要であろう。異った文化が直接境界を接して対峙しても、反発と抵抗に終始することが多い。しかし、その間に、空間的空白域あるいは時間的空白域をおくことで、徐々にではあるが両方の文化が浸透して、融合化された文化が形成されることは歴史が証明している。

○無為の効用

無為すなわち作為を捨てて、自然にまかせる生き方は、道家思想の基本である。しかし自然状態は常に混乱と危険をその背後にもつ。しかもそれは最初に述べたように、反文明的要素をもつ。しかしながら、文明が今日のように、ある種の極限状態にまで発展したときには、意図的に文明の発展をその時点のレベルで止めるという考え方もある。事実、多くの人々は、これ以上の技術の進歩、経済の発展に危機感をもっているし、コンピュータを必要としない人々も、おそらくそれは全人類の半数以上にのぼるであろう。

もちろん医療機器や技術、生活用品など高文明の恩恵をうける側面は存在するが、人類の大半が宇宙旅行や核兵器の発達を願望しているわけではない。自分自身の住む土地の自然を愛し、その土地で採れた食物を食べ、それを最上の生活とする「小国寡民」の理想は、あるいは人類の危機を救うかも知れない。

また、環境問題を考えるとき、大自然をそのままの状態におくことが最良の方法であることは、贅言を要さない。大自然には強い復元力・回復力がある。汚染され破壊された自然も、百年二百年を経過するうちに、もとの自然にもどることはよく知られている。ただし、一度破壊された自然も、元にもどらない場合がある。かつて西安郊外には、一大森林地帯が広がっていた。唐代頃までこの森林地帯は存在した。その後、戦乱による都市の破壊と復興、宮殿の造営、燃料需要の増大などから、森林は次々に伐採された。荒れた土地に植林しなかったため、永遠に一大森林地帯は地上より消えた。

無為ということの本質を考えると、「何もしない」のではなく、作為を弄することの戒めである。無策であってはならない。

○無欲の効用

ボランティア活動は、無報酬による奉仕活動をいう。その活動による利益を期待しない。こうした無欲の活動から、現在の生活に満足しそれ以上の生活を求めない生き方に至るまで、あらゆる面で、無欲は人間の生き方に影響をあたえる。そして、個人的紛争から国家間の紛争に至るまで、その主要な原因は「欲」によるものが大半を占める。換言すれば、無欲こそが共生論の基本概念であるかも知れない。

 

ここでは、主に『老子』の思想によって、共生論を裏付けてみた。『老子』はもともとが戦乱の社会を背景とした思想であるから、平和・安全・融和などの思想がきわめて濃厚である。共生学の目ざすところもそこにある。ただ、高度に発達した現代文明と、二五〇〇年前の社会とではあらゆる条件が異る。したがって、『老子』の思想をそのまま現代社会に用いることは不可能である。ただ、理論として共生学を裏付ける意義は充分にある。

 

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